市川房枝とは

市川房枝とは どんな人?

日本婦人有権者同盟の初代会長を務めた市川房枝は、戦前から婦人参政権運動・女性の社会的地位向上運動をリードし、戦後は国会議員となり、女性のための法律制定と腐敗政治の追及・是正に取り組んできました。
ここでは、日本婦人有権者同盟での活躍を中心に市川房枝の足跡を紹介いたします。

<戦前の市川房枝の活動>

1893(明治26)年5月15日 父・藤九郎(1848~1935年)、母たつ(1859~1941年)の三女として、愛知県に生まれました。父親は男尊女卑の考えの人で、躾と称して母親を薪棒で殴ったそうです。殴られた母の姿を見て「なぜ女だけこんなに殴られなければいけないのか」と、子どもながらに思いました。

1908(明治41)年 東京へ赴き、女子学院に入学。しかし、環境に馴染めず2か月後に帰郷。萩原尋常小学校の代用教員となり、9月から勤務。

1917(大正6)年 病気のため教員を退職。療養ののち名古屋新聞の記者となりました。翌年、退職し上京。兄の友人・山田嘉吉の塾で英語を習います。山田の妻・わかは『青踏』(女性の自我の自立と解放を目指した雑誌)の寄稿者の一人だったため、その縁で平塚らいてうと出会います。

1920(大正9)年 3月28日、平塚らいてう、奥むめお、山田わかなど70名が出席して「新婦人協会」発会式を上野精養軒で行いました。市川は座長を務めます。10月9日、新婦人協会機関雑誌『女性同盟』創刊号を発行(2000部)。女性の集会結社を禁じた治安警察法第5条修正の運動は、1922(大正11)年4月20日、治安警察法第5条第2項改正によって、女性の政治集会への参加、発起が認められるようになりました。

1921(大正10)年 渡米し、シカゴ、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコなどで働きながら、婦人運動や労働運動を見聞しました。とくに長い婦人参政権獲得運動の中心となっていた全米婦人党リーダーのアリス・ポールとの交流は、市川に大きな希望をもたらしてくれました。

1924(大正13)年 1月22日に帰国。アジアで初めて、1月から業務を開始したILO(国際労働機関)東京支局の職員となります。市川は婦人委員会として婦人の深夜労働などの現場を調査、改善するなど、この国際機関で働きます。また、婦人参政権運動を継続するための運動として、12月13日「婦人参政権獲得期成同盟会」を設立。市川は会務理事となります。翌年、男子の普通選挙が成立したのち「婦選獲得同盟」と改称し、活動を継続します。

1930(昭和5)年 婦人参政権を認める法案が衆議院で可決するも、貴族院で廃案。
その後、戦時下となり、市川は、国策に協力することで婦人の地位向上を目指し「大日本言論報国会」の理事として活動しました。これが、戦後、公職追放の理由となりました。

<戦後の活動>

1945(昭和20)年 「新日本婦人同盟」(「日本婦人有権者同盟」の前身)が、市川房枝らを中心に11月3日に発足。市川は会長に就任。婦人参政権の実現などを訴えました。幣原喜重郎内閣の時、婦人参政権を獲得。12月17日、ついに衆議院議員選挙法が改正され、婦人参政権が実現しました。これはGHQの指示に従ったものではなく、長年の日本国内の運動が実ったものでした。12月17日は日本婦人有権者同盟記念日となりました。

1946(昭和21)年 4月10日、戦後初の衆議院選挙。79人の女性が立候補し、初の女性国会議員39人が誕生。毎年4月に記念集会を開くことになりました。12月「婦選会館」が竣工、日本婦人有権者同盟の活動拠点となりました。

1947(昭和22)年 参議院選挙立候補の準備を進めていた最中、市川は公職追放となりました。戦時中「大日本言論報国会」の理事を務めていたことが理由でした。市川は3年余り公職に就けませんでした。

1950(昭和25)年 公職追放が解除となり、新日本婦人同盟に復帰。市川は会長に就任。会の名称も「日本婦人有権者同盟」と変更しました。 1953(昭和28)年 市川房枝はきれいな選挙(選挙の浄化)「理想選挙」を掲げて、第3回参議院議員選挙に当選します。

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公明選挙「全国婦人中央会議」に出席(1955年) P3

小選挙区制反対のビラを配布(1956年) 1959(昭和34)年 第5回参議院議員選挙東京地方区で2位当選。この時市川房枝は29万2927票を獲得しています。

P4 6婦人団体池田勇人総理と会見 新内閣に要望(1960年)

P5 第5回統一地方選挙での青空演説会(1963年) P6 佐藤栄作新総理に物価安定等を要望(1964年) 1965(昭和40)年 第6回参議院議員選挙では東京地方区4位当選。49万6796票が市川房枝に寄せられました。 1967(昭和42)年 東京都知事選挙においては、「みのべ氏の理想選挙を支持する会」を市川自ら先頭に立って旗を上げ、無所属の美濃部亮吉を当選させました。

P7 衆院選に際し青空演説会に「待った」がかかり理想選挙普及会の主催とする(1967)

P8 第23回衆院選・選挙啓発青空演説会(1969年) 1971(昭和46)年 11月6日、「理想選挙推進市民の会」を結成。「出たい人より出したい人を」が、きれいな選挙のキャッチフレーズでした。この年の6月27日に行われた参議院選挙、市川にとっては第4回の理想選挙を闘いましたが、落選でした。

P9 選挙制度および参議院のあり方について河野謙三参院議長へ申入れ(1971年)

P10 自民党総裁選挙に関し田中角栄衆議院議員へ申し入れ(1972 年) 1974(昭和49)年 7月7日、第10回参議院議員選挙では、勝手に推薦するグループが市川房枝を推薦する会を作ります。「広がれ、市民の理想選挙」と、大きく理想を掲げました。結果は、カンパ目標の500万を大きく上回り、なんと1336万8917円(6月13日の時点で)に達成していたのです。5月、市川は出馬要請を受諾。「市川房枝さんを推薦する会」が組織されました。肝心の市川房枝の得票数は、55万3353票をはじき出していました。 1975年 11月、全国の女性団体が東京に集合し「国際婦人年日本大会」を開催。市川は実行委員長を務めました。 1979(昭和54)年 「ストップ・ザ・汚職議員の会」結成。   ロッキード・グラマン事件など、不祥事が後を絶たないことから、女性・市民17団体が「汚職に関連した候補者に投票をしない運動をすすめる会」(略称「ストップ・ザ・汚職議員の会」)を結成し、市川は代表世話人を務めました。 1980(昭和55)年 6月22日、「市川房枝氏全国区第一位当選」。第12回参議院議員選挙の結果は、このようなトップ記事を生みました。理想選挙の勝利です。87歳の市川房枝が、278万4998票を獲得していたのです。 しかし市川房枝は、この翌年、1981(昭和56)年2月11日、心筋梗塞による心不全のため永眠。 1989(平成元)年 7月23日、第15回参議院議員選挙では、市川からバトンを渡された後継者、紀平悌子が理想選挙を闘い、当選しています。

<市川房枝が日本婦人有権者同盟とともに取り組んできたこと>

[理想選挙]

*「出たい人より、出したい人」 応援は手弁当で 市川は選挙後に毎回報告書を出しました。そこにはキャッチフレーズ「出たい人より、出したい人」とともに、応援者も手弁当で参加すること、ごちそうにならないなど、厳しく律して選挙運動することが記されています。 *仲間を増やす 市川は地方選挙にも力を入れ、仲間を増やしていきました。地方に多くの支部をつくり、そこで、出てほしい女性候補者を立てて、みんな手弁当で選挙運動を行いました。 *使ったお金の収支を明らかにし報告する 選挙のあと、使ったお金はすべて収支を明らかにし、応援してくれた人たちに報告書を送りました。報告書の制作費も、持ち寄られたお金から出しています。 *当選した人を見守り育てる 応援した人が当選したならば、その人が任期の間、正しい政治をやっているか見守り、育てていく。そして、またさらに次の人を育てていく。市川自身は、詳細な国会報告を作成しました。市川は、自ら実践し、理想選挙を打ち立てていきました。 理想選挙の実践と、当選後の議会報告は、ストップ・ザ汚職議員・選挙区の定数是正などの運動につながっていきました。 後に「理想選挙推進市民の会」がつくられ、市川のあとを継いでいきました。

[選挙区の定数是正]

選挙区によって当選者の票数に大きなばらつきがあり、一票の価値が公平に使われていない状態でした。市川たちは運動を起こしました。 *衆議院選挙区の定数是正 1972(昭和47)年12月10日の衆議院総選挙では、千葉1区、東京3区、東京7区、神奈川1区、埼玉1区の5区の票が、特に軽い状態となりました。「この5区は、憲法違反で当選無効」と、市川たちは東京高等裁判所に提訴しました。 1976(昭和51)年4月14日、最高裁は憲法違反と判決。 *参議院地方選挙区の定数是正 この最高裁判決の趣旨は、他の選挙にも適用されるべきでしたが、1977(昭和52)年の参議院選挙前に「公職選挙法」は改正されませんでした。参議院地方区選挙では、有権者数と議員定数のアンバランスが拡大しました。 たとえば、鳥取県で1人1票とした場合、東京・大阪は5人で1票となりました。実際に、鳥取県では広田幸一候補(社会党)が15万9866を得票して当選したのに対し、神奈川県の廣永啓太郎候補(無所属)は51万8272票を獲得しながら落選しています。東京や大阪でも、廣永候補より多い得票数の候補が落選しました。 そこで1977年8月、神奈川県の有権者307名と東京都の有権者787名、合わせて1094名が原告となり、東京高等裁判所に再び提訴しました。

P11 第33回衆議院選挙定数是正訴訟第1回審判決の日(1974年)

P12 第33回衆議院総選挙定数是正訴訟最高裁へ上告(1975年)

P13 1983年第11回参議院地方選出議員選挙無効請求訴訟 最高裁大法廷判決
[腐敗政治の是正:ストップザ汚職議員] 選挙の際、お金のやりとりやご馳走・プレゼントに慣れると、汚職になり、果ては、ロッキード・グラマン事件のような大事件へとつながります。 理想選挙をかかげた市川は、汚職に関係した議員を絶対に当選させないという運動を行ないました。 *ストップ・ザ・汚職議員!の会  1976年、アメリカ議会上院議会で、ロッキード社が新型ジェット旅客機を全日空に売り込むため、日本の政府関係者などに多額の賄賂を配っていたことが明るみに出ました。この事件は、田中角栄元総理大臣ほか2名の政治家が逮捕されたのをはじめ、多くの関係者が逮捕される大スキャンダルとなりました。また、79年にはグラマン社が、65年に政府関係者に多額の賄賂を渡していたことが発覚。当時の防衛庁長官だった松野頼三衆議院議員は、国会で賄賂を受け取ったことを認めましたが、すでに時効でした。 1979年、この一連の事件を受け、市川は「ストップ・ザ・汚職議員の会」を立ち上げました。金権政治を排除し、汚職議員を追放することを目的とした運動でした。全国紙にカンパを要請する広告を出し、集まったお金で地方紙に意見広告を掲載。汚職候補の選挙区に乗り込んで街頭演説を行いました。 政治資金規正法の問題点の周知徹底を訴える 根本から改めるべきである!

P14 「ストップ・ザ・汚職議員!」報告集会で挨拶をする市川代表 *全国キャラバンの実施 亡くなる前年の1980年5月、街頭演説会のキャラバンを実施。東京を皮切りに、松野頼三の選挙区である熊本市、田中角栄の選挙区である長岡市などに乗り込み、街頭演説を行いました。また、熊本日報 朝日新聞 西日本新聞などに意見広告を掲載しました。

P15 渋谷区ハチ公前の街頭演説を皮切りに「ストップ・ザ・汚職議員!」の全国キャラバンを実施 [国際婦人年 1975年] 市川の活動の原点は、女性の社会的地位の向上にありました。その一環として、日本婦人有権者同盟の活動もありました。 1957年、国際連合の第十二回総会において、当時の日本婦人有権者同盟会長だった藤田たきが婦人の社会的地位向上について発言しました。「藤田たき代表は本邦最初の婦人国連代表であり、戦後日本婦人の活躍振りを説明し、婦人の地位向上に関する国際協力を進めるためセミナールを毎年開催する旨の決議案を、わが国をはじめとする十一カ国の共同提案の形で上提し、総会において全会一致で採択された」(外務省「国際連合における活動」から)。このあと毎年、報告会において、各国で婦人の社会的地位向上の取り組みがどこまで進んだのかを報告することになりました。

P16 57年政府代表として藤田会長が国連総会へ出発 国際連合は、1975年を「国際婦人年」(国際女性年)とすることを宣言し、この年、メキシコシティで第1回世界女性会議が開催されました。11月、日本では「国際婦人年日本大会」が開催され、市川は実行委員長を務めました。翌月に結成された「国際婦人年日本大会の決議を実現するための連絡会」でも市川は委員長を務めました。

P17 国際婦人年日本大会
[二院クラブ] 市川は、1953年、参議院選挙当選後、院内交渉団体として、無所属議員でつくる「無所属クラブ」を立ち上げました。1962年、参議院同志会と合同で「二院クラブ」を発足。1964年、同志会は自民党に移籍しましたが、市川ら残った議員はそのまま「二院クラブ」を維持し、無所属議員の受け皿となりました。
***************** 戦争への危機をはらむ国際情勢の中で、日本でも軍備の増強、あるいは徴兵制を考えるというように、だいぶきな臭くなってきました。こういう時に、政治の腐敗は、国民を戦争へ追いやる、いわゆるファシズムの温床になります。 もし戦争になったら、婦人の権利も、あるいは子どもの幸福も、全部すっ飛んでしまいます。 そこで、どうしても戦争への道をストップさせなきゃならない。 それには、どうしたらいいか。 結局、政治の腐敗をなくすために、選挙の際に、一票を持っている婦人の参政権、それを最も有効に使うことです。つまり、戦争に反対するような候補者、あるいはそういう政党を選ぶということは、非常に大事だと思います。 その点を特に婦人の方々に申しあげたい。 市川房枝(「八七歳の青春」より)
参考資料 市川房枝研究会編『市川の言説と活動-年表でたどる婦人参政権運動 1893~1936』 公益(財)市川房枝記念会 女性と政治センター出版部 2013発行  ビデオ『八十七歳の青春-市川房枝生涯を語る-』桜映画社制作 1981年